主観的論理学とは「概念」すなわち本質(Wesen)の論理学である。ただし、この本質とは、有あるいは自分の仮象との関係をすでに止揚して、もはや自分の規定の中で外面的ではなく、自由で自立的な、自己のうちで自己を規定する主体的なもの、あるいはむしろ主体自身であるような本質のことである。
07-22 21:36
全く異なっている。この総合的であるとともに、また分析的でもあるところの判断の要素によって、最初の普遍は自分を自己の他者として規定するのであるが、このような判断の要素は弁証法的な要素と呼ぶことができる。(大論理学 絶対的な理念)
07-22 21:07
その対象は自己を他者として示すものだからである。もっとも対象がそれ自身の中に持っている差別的な存在の関係は、もはや有限な認識において言われる総合ではない。概念そのものの中における関係という、対象の事物のもつ分析的な規定から言っても、その関係は有限な認識における綜合とは
07-22 21:00
客観性なのであって、この絶対的な客観性についての確信が、すなわち絶対的方な方法に他ならない。――しかしこの絶対的な方法は、また総合的でもある。というのは、その対象は直接的には単純な普遍とみなされているが、その対象がその直接性と普遍性そのものの中で持っている規定性を通じて、
07-22 20:50
ひたすら事物そのものに目を向けて、事物の中に内在的に存在するものを意識にもたらすことを要求したのであった。絶対的な認識の方法は、その限りにおいては分析的である。絶対的な方法そのものの始まりをなす普遍のさらに進んだ規定を、ただその普遍の中にのみ見出すということこそが、概念の絶対的な
07-22 20:41
それぞれの事物(die Dinge)を即自向自的( an-und-für-sich)に、それ自身として考察すること、つまり一方では、事物を普遍性において考察しようとするものであり、他方では、事物から離れて、諸々の状況や事例や比較などによってでなく、
07-22 20:36
これに反して絶対的方法は、外的反省のようなやり方をせず、その対象そのものの中から直接に規定されたものを取り出す。というのは絶対的方法は、その方法自身が対象の内在的な原理であり、魂だからである。これこそプラトンが認識について要求したことであった。すなわち彼は、
07-22 20:32
Author:enzyklo
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